01.伝えたいこと
あ、と声を出しかけるものの喉で止まり、そのまま身体に吸収されていった。話さなければ、そんな思いが募れば募るほど心と比例して声も萎縮していくばかりである。目の前には彼の私室と廊下を遮る障子しかない。(この薄い紙が分厚い壁のよう……)はあ、とは溜息をついた。今日もまた諦めるしかないのだろう。いや、心が諦めたがっているのが分かった。そんな素直な自分の気持ちを受け入れると少し心が軽くなり、肩の力が抜けた。
「……俺になにか用か」
中に居ると信じていた人物の、背後からの堅い声にの表情がぴしりと固まった。そのまま油を差し忘れた動きの悪いからくりの様に、声がした後ろへ振り向いた。
「えっと、あの……」
目を出来るだけ合わせないように適当な方向へ逸らすのも限界があった。かちりと視線が交わったとき、は泣きたくなった。声とは裏腹に、タイガの表情は穏やかだった。ふっと浮かんだ笑顔は柔らかなそれ。
「そんなに必死な表情だとこっちが先に参りそうだ」
02.見えるもの
空は広く、夜は深く、星は眩しく、雲は大きい。縁側に腰掛け、空をどんなに見上げてもあまり首に負担はかからない。は時の流れを感じながらも、細かく刻むことを知らない、この世界のどこかゆったりとした、流れているのか明確には分からない時間感覚に浸るのが好きだった。目を見開いて、眼に飛び込んでくる景色を全て受け止めても受け止めきれない何かがある。夜の闇は足元すらもおぼつかなくさせるが、それによって星々は輝きを増し、月を隠す雲を淡く照らしだす。元居た世界では失われていた本当の夜の世界がここにはあり、今まで見ていた夜がなんだったのか分からなくなる。なんでも揃っていた世界が何でも揃えるために払った代償はあまりにも大きすぎたのではないか。確信にも似た何かをこの満天の星空を見ては確信した。本来だったら知りうる筈が無かった光に出会えたこの稀有な人生も悪くないのかもしれない―――すとんと真実を受け入れるだけの気持ちの余裕が生まれた。
「そんなに星が好きか?」
そういえばすっかり存在を忘れていた。隣にはさっきからずっとタイガが居ることを忘れて、は空に星に魅入っていたのだ。
「好きです、星だけではなく、雲も、月も、雨も、雪も…空そのものが」
「そうか……」
自分と目すらあわせずひたすら空を見上げるに、タイガは少し困ったように微笑んだ。
「貴女は変わっているな。空は誰の物でも無いからこそ、誰もが同じように見上げることは出来る。そのかわり、好きだといわれても贈ることは出来ないな」
言われたことの意味を理解しきれず、思わず視線を下げてタイガを見やる。彼が何か言いかけたように見えたのは、の気のせいだろうか。タイガは夜目が利くのだろうが、さっきまで星を見ていたせいもあってには彼の表情がほとんど見えない。一瞬、先ほどまで考えていたことを忘れて、明るい電気がほしいとは思った。
03.感じること
一人分くらいの間をあけて隣に腰掛けているを、タイガは見つめた。彼女は星を眩しそうに見上げたまま、真剣に物思いにふけったかと思えば柔らかな表情を浮かべたりと何を考えているのかさっぱり分からない。けれど彼女の横顔がどこか寂しそうでありながら、矛盾しているが満ちている様にも見え、なぜが安堵する自分にタイガは苦笑を浮かべた。(以前彼女は星と月の明るさに感動したと話していた)思わずタイガは心の中で首を傾げる。(それではまるで星たちを知らなかったかのようだった)自分も彼女と同じものが見たくなって空を見上げるも、いつもと変わらない夜空。
――今にも零れ落ちてきそうで、逆に怖くなるくらい。夜空に酔っちゃいそうですね、こんなに星があると。
いつかの言った言葉がふと頭の中に湧き出てきた。もう一度、隣に座るの横顔を見つめた。黒い瞳にたくさんの星を浮かべ、そこにはもう一つの空があった。無意識に息を飲んだ。何かに捕らわれかけた瞬間、タイガは首をゆったりと振り何かを追い払ってから、彼女が星に酔わないよう声を掛けた。
「そんなに星が好きか?」
「好きです、星だけではなく、雲も、月も、雨も、雪も…空そのものが」
「そうか……」
話しかけても目を合わせない彼女にタイガは呆れ半分と、それなら、満足するまで見上げているつもりならいつまでも付き合おうという穏やかな気持ち半分で笑った。
「貴女は変わっているな。空は誰の物でも無いからこそ、誰もが同じように見上げることは出来る。そのかわり、好きだといわれても贈ることは出来ないな」
深く考えず口にした言葉に視線を返されて、タイガは今しがたの自分の言葉に焦った。何か言い訳を、それとも下手なことを言うよりそのままさらりと流した方が良いのではないか、考えているうちに続ける機会を逸してしまいそのまま口を噤んだ。暗闇で彼女にはっきりと情けない顔を見られなくて良かったとタイガはこっそり力を抜いた。
2万打記念(2010/06/27)
お題は
お題やさん。 より、お借りしました。