私的まほろば

わたしのおうじさま

「ハヤテの馬鹿ぁ!」

渾身の捨て台詞を吐いた後、堰を切ったように犬にも負けないくらいわんわんとは泣いた。ご機嫌よくハヤテを撫でていたのに、何かが気に食わなかったのだろう、ハヤテが吠えたのだ。普段あまり吠えないハヤテの迫力だけの逆襲だけでも5歳のを驚かすには十分であった。びくっと肩をこわばらせ、硬直した状態でちょっとずつ後ずさる。けれど思うように足は動かず、後ろ歩きですり足気味だったせいか何も無いところで転んでしりもちをついてしまった。頬には瞳の許容量を越えた涙がボロボロと零れ落ちていた。限界を超えてしまったは堪えていた嗚咽を一気に喚き声えと昇華させた。さっきまで吠えいていたハヤテも突然の反撃にたじろいだ。今度はくぅんと情けなくないて、謝罪のつもりだろうか、しりもちをついたまま、普段よりも低い位置にあるの頬をペロペロとなめだした。しかしそれはを余計怖がらせるだけで、彼女は今度こそ動けなくなってしまった。張り上げていた声は萎縮してしまって、かすれた音しか出ない。そんな時、別の声が参戦した。

「ハヤテ!」

その声はいつも一緒に遊んでくれる理一のもので、は見えない重りが外されたように感じられた。先ほどのの様にびくっと反応したハヤテはなめるのをやめ、そのままどこかへ走り去ってしまった。縁側から音も無く飛び降りて、足の裏が汚れるのも構わず泣いているの元まで小走りでやってきて、優しく頭を撫でた。

「怖かったな」

理一が膝を折っても、まだまだにとっては高い位置にある黒い瞳が愉しそうな光を湛えた。もう一度頭を撫でた理一はさっと自然な動作での膝裏に腕と背中に腕を回した。きょとんとしているに「いい子だ」と囁いてから、素早く、けれど抱えられている本人ですら一瞬分からないくらい丁寧に立ち上がった。まだこの時は「お姫様抱っこ」という言葉を知らない。



その格好のまま裏の水桶まで連れて行かれ、そこで降ろされた。手を洗っておくようにに指示を出して、理一はどこかへ消えていった。栄おばあちゃんの家で一人ぼっちになることに寂しいと感じるではなかったので、素直に従い手を洗った。洗っているとき掌がチクチクするので見てみれば、擦ってしまっていた。誰か大人に言って、「しょうどくしてもらわなきゃ」と呟いた。またさっきなめられてベトベトするからと顔も洗ったが、水を垂らしながらタオルが無いことを思い出した。どんどん水は顔を伝ってTシャツを濡らしていく。

「あー」

万里子おばさんに怒られちゃうな、と分かっていながらTシャツをべろんと捲って顔を拭こうとしたとき、とても高いところから低い声が降ってきた。

「ほらタオル」

そう言って差し出されると思ったタオルは、ゆっくりと顔へ降りてきた。しゃがんだ理一が優しくのおでこを頬を拭ってやる。泣き腫らした瞳は仕方がないとして、涙で強張った形のままだった頬も自然と緩む。そのままタオルはの首に掛けて、今度は左手をとられて、擦り傷がばれてしまった。
(ばれてしまったというよりも、彼は知っていたのだろうが)
立ったままのとしゃがんだ理一では、さすがに理一のほうが低い。の左手をくるりと裏返し、お姫様の手の甲に王子様がキスするように、理一は恭しくそっと口付けた。絵本やアニメで出てくるお姫様と同じ立場になったは、洗って冷ました筈の顔が再び真っ赤になってしまった。

「おまじない」

まっすぐ見上げてくる視線とぴったりかち合う。多くを語らない目の前の背が高くて、ちょっと不思議なとても黒い瞳の王子様の瞳には自分が映っていて、は視線を外してしまった。苦笑する声も、何も聞こえないからには理一がどんな表情をしているのか知る由も無かったが、きっと見ていても読み取れなかったに違いない。その後、タオルと一緒に持ってきた雑巾とサンダルを適当な場所において、理一は足の裏を洗ってから拭き、サンダルを履いた。

「さて、消毒をしないとな」

行こうか、との小さな手を握る手は大きくてごつごつしていた。物語の王子様は白い手袋をして剣を握っているが、彼女にとって反対側に雑巾を握っていたって関係なかった。

(10/02/12)