私的まほろば
おじさんとみっしょん
「こいこい」
「確かに、こいこいだな」
ぐしゃりと頭を撫でてくれたのは理一おじさん。これから一緒に池の鯉にえさをあげようということらしい。残念ながら花札の『こいこい』ではない。が固形のえさを数粒もって水面に投げつけるように落とせば、どうやって気付くのか鯉がどんどん集まってくる。一瞬現れる大きな口をは可愛いとは思えない。けれど、あげればあげるほど来る鯉たちが面白く、嫌いな作業ではなかった。理一とが持ってきた分を投げきれば、奴らは現金なのですぐにえさがなくなったと分かれば好き勝手に散ってしまった。
「理一おじさん隊長!お仕事おわりましたー」
「よし、これにて任務終了。ご苦労だったな、隊員。しかしおじさん隊長か……、おじさん隊の隊長みたいだなあ、まあ否定できない年ではあるが」
ははっと、軽く笑った理一が何か難しいことを言っていたが、は理解できずに首を傾げる。片手にはえさの入っていた容器があるので、その反対側の空いているほうの手にが繋げば、理一は握り返した。
「難しかったな。、おうちに帰るまでがお仕事だからな」
「はーい」
「いい返事だ」
二人仲良く家に向き直ったら目の前をハヤテと翔太が走り回っている。ハヤテが翔太を追ったり、翔太がハヤテを追ったりと、主従関係なんてものが一切見えてこない構図。
「おにいちゃん、ハヤテいじめちゃダメー!」
「教育してんだ、馬鹿野郎!この間コイツは夏希に吠えたんだぜ」
「……おにいちゃん、のときはたすけてくれなかった」
しょぼーんと、見るからに気落ちしたに理一がしゃがみ下から覗き込む。
「俺が助けただろ?」
ニヤリと笑った理一にはドキッとする。心の中で、かっこいいっていうのはこういうことなんだ、と一人で納得する。しゃがんだせいで上目遣いな理一がハヤテから助けてくれたときの、おまじないをしてくれた王子様を思い出してちょっぴり照れてしまう。は恥ずかしくなって、下を見るのをやめて、頷く。理一が立ち上がり、歩き出そうとしたその時、のすぐ目の前をハヤテが横切り驚いて一歩後ろに下がってしまう。けれど後ろは池の縁石、つまずいて身体のバランスを崩しかけたが、手を繋いでいた理一が上手く引っ張りあげてくれて池ポチャだけは防がれた、と思われた。しかしハヤテの後を追いかけた翔太が今度はと理一の前を走り、振り上げていた腕がにぶつかった。持ち直しかけていたバランスの均衡が再び崩れ、は重力に逆らえなくなってしまった。の目に、慌てた理一の顔が飛び込んできた。めずらしいなあ、なんて悠長に思っているうちにボチャンといい音を立てては池に落ちた。
最初、自分が落ちたということには気付かなかったが。間髪いれずにもう一回ボチャンといういい音がしてようやく自分が沈んでいることを理解して、慌てた。決して深い池ではないが、特別浅い池でもない。
それでも立ったの胸くらいまでの深さはあるのだ。慌てたは思わず水の中で息を吸おうとしてしまい、口から鼻から水が流れ込む。苦しくて、気持ち悪い感覚が身体を支配して完全にパニックに陥る瞬間、身体が急激に持ち上げられた。
ザバァ
落ちてすぐそれでも冷静だった理一が体勢を立て直してからを拾い上げたのだ。無意識のうちに理一にすがりつき、飲み込んでしまった水を吐き出す。喉がいがいがし、鼻がツーンとしてとても痛いだけでなく、怖かったはうっうっうと泣き出す。そんなを理一は赤ちゃんをなだめるように優しく背を叩いてやった。ずぶ濡れな大人と子供が池の中に立っている絵はさぞ可笑しかったのであろう、縁側に立っていた万理子が珍しく口を大きく開けて固まっていた。自分の肩口に顔を押し当て泣いているの耳に口元を寄せてそっと理一は囁いた。
「言っただろう、。おうちに帰るまでが仕事だって。最後まで何が起こるか分からないから気を抜いちゃだめだぞ」
この時よく先生が言っていた「遠足は帰るまでが遠足」の意味を理解し、反省を含めて何度も何度も泣きながら頷いた。
(10/02/15)