言霊人
01 始まり、それは全ての幕開け
は、普段通りの日常を淡々と過ごしていた。朝、目覚ましによって起こされ、支度を整えてから朝食を食べ、母親が作ってくれた弁当を鞄に詰め込み家を出る。学校へ行くには、一度電車を乗り換えなければいけない。乗っている時間や待ち時間に読む本を、取り出しやすいところに入れておく。学校に着けば割り当てられている授業を受け、休み時間には友達と談笑し、時間が過ぎていくだけの日々。ただ時折、行きと帰り、同じ道を通っているのに見える風景が反対なだけで、見え方は随分違うのだな、と思った。けれど、それもまた一瞬で時と同じように身体のなかをすり抜けていってしまう。そんなある日。は、まさか自分が「同じような日々」から見捨てられようとは、思ってもいなかった。
電車も難なく乗り換え、あと数分もすれば家への最寄り駅に着く――そんなときだった。は、急に喉の渇きを感じた。冬の足音が近くなってきていた今日この頃、喉がやられたのかもしれないな、と思い唾を飲んだ。駅に着き、改札を出た。ふと、 は飲み物を買いたくなった。――否。買わねばならないという、自身も理解しがたい衝動に駆られた。あと2・3分も歩けば家だというのに、抑え切れなくなった。買うのは勿体無いと分かっていても、結局、500mlペットの水を買ってしまった。買ってしまったのだからとペットボトルを開け、 は一口程飲んで、それを学生鞄にしまう。水の分だけ重くなった鞄が、とても重く感じられた。もうすぐ家だ、と思って気が抜けたせいか急に足も身体も重くなった。さあ、もう一頑張り。は自分を鼓舞しつつ、駅の階段を下りようとした。
――だが、下りるはずの階段は何処にも「無かった」。慌てて振り向けば、背後もまた、何も「無い」状態だった。思わずえっという声が漏れてしまうが、さっきまでいた駅の利用客たちをはじめ駅自体が「無い」のだから、誰かに聞かれるはずもなかった。何が起こったのかを確かめようと足を踏み出した、瞬間。ずぶり、とも違う、ぬっとした何かに足を呑まれるのを感じた。そのままなす術もなく、足から順に身体が何も「無い」ところに飲み込まれていった。恐怖のあまり は声を出せなかった。出たところで、何も「無い」この場所に、 助ける者は誰もいない。何も「無い」ために、文字通りつかまることも何もできないまま、 は混濁した意識と共に、「何も無い」世界から消えた。
目覚めたとき、 は漸く声を出すことができた。いや、「叫んだ」という表現の方が正しい。―――自分が水中に立っていたのだ。自分の上でも下でも、魚の様な生き物が心地よさそうに身体をくねらせながら泳いでいる。慌てて確認するも、問題なく呼吸している。苦しくも無い。それに、制服や荷物が濡れている感覚もなく、寒さも感じなかった。自分のおかれた状況を把握しようと考えながら、同時に、 は落ち着きを取り戻し始めた。慌ててもこの状態は変わらないことを、薄々この世界全体が告げているような気がした。
どうやら水の中に立っているようなのに、水の抵抗が感じられず泳ぐ気もおきなかった。さっきのように下手に歩いて、また訳のわからない状況に置かれても困る。けれど、だからといって何も情報を得られなければ、どうしようもない。は、唯一の手荷物である学生鞄が自分の右肩にかかっているのを目で確認すると、その持ち手をしっかりと握りしめた。携帯は壊れてしまっただろうか。けれど、不思議と自分は濡れていないのだから、無事かもしれない。確かめるために鞄のチャックを開け、携帯を取り出してみた。まさかと言うべきか、やはりと言うべきか、携帯は起動していた。しかし電波は圏外。使えないことは覚悟していたから、動揺はしなかった。いたって正常に作動しているだけでも、自身の精神的には救いだった。表示された時刻は16:57。それを確認した は、先のことを考えて電源を切った。何故だろう、水の中なのに足場はしっかりしていた。歩けるだろうか。は、慎重に一歩目を踏み出した。だが。
ズッ
踏み出した右足に信じられないほど凄まじい水流を感じた。それを頭で理解したときには、すでに身体は荒れ狂う流れの中に引き込まれていた。流されながら、 の身体は何度も岩のような硬いものにしたたか打ち付けられた。痛いとか苦しいとか、そんなことを思う余裕すらない。
(死にたくない…!)
全身を襲う痛みと苦しみの中、その言葉を最後に、 の意識は途絶えた。
何とも言えない浮遊感のなかから、身体が引き上げられるのを感じた。とたん、 の肺に空気が流れこみ、ガハガハと噎せながら、空気のかわりに肺の中にたまった水を吐き出した。その背を、誰かが優しくさすってくれた。の呼吸が落ち着くと、背後から男の人の声が言った。
「大丈夫かい?一体、どうしたっていうんだ」
全然、大丈夫じゃない。どうしたのかなんて、私自身が一番ききたい。そう言いたかったけれど、それが声になることはないまま、 の意識はまたすぅっと遠くなっていった。
(2008/11/24)