言霊人

02 目覚めは悠久の時を越えて

 自分の額に乗っていた何かを、誰かが冷たいものと取り替えてくれた。そのヒヤリとした感覚で意識を取り戻したは、ゆっくりとまぶたをこじ開けた。

 今、寝てていいよと言われれば、すぐにでも深い眠りにつける自信がある。いまだかつてない程、まぶたが酷く重たかった。けれど何よりも今は、自分のおかれている状況を知りたかった。とても気だるかったけれど、とりあえずはできるかぎり頭を動かして、視線が届くところを見渡してみた。自分の思考が普段以上に鈍っている。それだけは、視線を動かしただけで分かった。ちゃんと見ているはずなのに、なんだか何もかもがよく分からない。何も理解できない自分に、は深い溜息をついた。

「おっ、目が覚めたか。調子はどうだ?」

 は、反射的に声がした方を見た。そこに立っていたのは、20代半ばくらいの見知らぬ青年。警戒はするものの、にとって最大の問題はその男ではなかった。声を掛けられたことによって一気に覚醒した頭が、目の前の光景を処理し始める―――と、頭の中で何かがはじけた気がした。の頭の中にフラッシュバックするのは、意識を失う前の不可思議な出来事。急に何も「無く」なった世界。抗うすべもなく沈んでいく、あの感覚―――――

「ここ…は?」

 混乱のなか、思わず出た声は自分が思う以上に怯えていた。そんなに配慮してくれたのか、青年は優しい落ち着いた声音で答えた。

「ここは俺の家だ。大丈夫、変なことはしないよ。きみったら池に落ちていたんだ、驚いたよ」

 苦笑混じりで言うと、椀を持ってが横になってる脇に膝をついた。

「起きれるかい?何か少し口にしたほうがいいだろうから…」

 そう言って、椀を一旦床に置くと、を起こすために手を差し出した。は自分で身体を起こそうと試みたが、とたんに身体中が悲鳴をあげた。結局、は青年に身体を支えられてようやく上半身を起こすことが出来た。気づけば、制服ではなく、見覚えのない着物に似たつくりのものを着ていて驚いた。けれど、再び情けない声を出すのは嫌だったから、何も問わなかった。



 が食事を取っている間に、青年はタンダと名乗り、池のほうから大きな音がしたから見にいくと、が溺れており、なんとか引き上げたこと。そしてそのまま熱を出したを着替えさせ(この辺は善意なのでスルー)、看病しつつ、が目覚めるのを待っていたことなど、現在に至るまでのことを的確に説明してくれた。また、荷物は無事で部屋の隅においておいたこと。触れていないことを、安心させるように付け足した。は感謝し、自分も「」とだけ名乗った。そうして、タンダの説明を全てを聞き終わってから、はやっと疑問を口にした。

「タンダさん、大方のことは分かりました。それで、その、今さら変な質問かもしれませんが…ここは何処ですか?」

 タンダは、おや、という顔をしたものの、すぐに答えてくれた。

「街から暫く北に来た山小屋、という説明はさっきしたけど…お前さんが聞きたいのはそういうことじゃなさそうだなあ…」

 の反応を伺うように、語尾が消えた。

「もっと大きな目で見て、です。どこの地方、どこの国、どの大陸、とか……言葉は通じていますが、どう見てもここは、私のいた国ではなさそうなので」

 一度、ゆっくりと目を閉じてから、タンダが頷いた。

「どうも、については不思議なことが多いんだ。ちょっと俺の手には負えないかなあ。まあ、どうにかしてやるさ。で、質問の答えだが、ここは新ヨゴ皇国。ええと、北にはカンバル王国があってだなあ……わかりそうかい?」

 は首を横にふる。「俺の手には負えない」というタンダの言葉が、何故か引っ掛かった。けれどそれ以上に、わからないけれど何か、大切なことを見落としている気がしてならなかった。

「さあて…どうしたものか。とりあえず、暫くの間はうちでゆっくりしていくといい。特別生活に困ってるわけでもないから、は体調を戻すのを第一に考えるんだ。いいな?お前さんについては、俺の師匠に少し相談してみるさ」

 師匠?と、首をかしげるの頭を、タンダがくしゃりと撫でた。

「さあ、そうと決まったら体調を治さなきゃな。おやすみ」

 は言われるままに横になった。タンダはが横になると、水につけて絞った布を、の額に乗せた。腹が満たされて既に夢の中に入りかける意識をなんとか保ちながら、は「ありがとうございます」と、再び感謝を口にした。



 幾日かして、熱も下がり身体の痛みもなくなった頃から、は家の手伝いをするようになった。自分のいた世界とあまりにも勝手が違いすぎて、全てを一から教わった。毎日が、新しいことの発見だった。着物の着方、囲炉裏の火のつけ方、戸の鍵の閉め方、水の汲み方、食器の洗う方法、薬草の干し方。それらだけでなく、タンダは新ヨゴ皇国で使われている文字も教えてくれた。読み書きが出来ないままでは困るとが頼み込んだところ、タンダは快く引き受けてくれたのだ。かわりに、タンダはのいた世界について詳しく聞きたがった。だからは、自分の知りうる限りの知識をフルに使って、事細かに説明した。ヨゴの文字は漢字以上に複雑なつくりになっているために、最初は苦労したが、コツを掴んでからは、の識字力はどんどん伸びていった。タンダは算術についても教えてくれようとしたが、純粋に計算能力だけなら、の方が上だった。タンダは、の計算の速さは商人並みだと感心し、コレなら充分に商いでもなんでもやっていけると褒めた。

 がこの世界に来て二ヶ月くらい経ったころから、タンダは文字に続いて礼儀作法や世間の常識についても教えてくれるようになった。は未だに町に行ったことがなく、タンダの他に人に会ったことはなかった。

(2009/01/07)