言霊人
03 まるで帰り道のわからない迷子のように
タンダ以外で初めて会った人がトロガイ氏でなければ、の運命はもっと違ったものになったかもしれない。
「あんた、人間かい?」
「師匠!」
トロガイはを見た瞬間、開口一番尋ねた。その質問に、は面食らいつつも答えた。
「…えっ…自分では、人間だと思って、ますが…。」
「なんだい、頼りないねえ。本当に人間かい?」
再びタンダがトロガイを制止するように「師匠!」と呼ぶが、トロガイには歯牙にもかけない。は、今度はまっすぐにトロガイの目を見て、自分に言い聞かせるように、はっきりと答えた。
「…私は、人間です」
その答えに、初めてトロガイがうすく笑った。
「ああそうかい、ならそれでいい。…話に聞く限り、どうやら違う世界から来たっていうじゃないか。ナユグか、それとも…とにかく、詳しく話を聞かせな」
は小さく頷いた。
「私は“学校”という、勉強をするところに行った帰り道でした。
…よく、分からないんですが、急に喉が渇いて。だから、水を買って一口飲みました。そうしたら急に回りが『何もなくなって』…訳が分からないうちに足元から、暗闇に飲み込まれました」
ふむ、とトロガイが唸る。は構わず続けた。
「気が付いたら多分、水の中にいました。だけど苦しくないし、冷たくないし、不思議とどこも濡れていなくて…「それこそナユグじゃ。」
はさまれた言葉にキョトンとするも、は続ける。
「…だから、不思議に思って一歩踏み出したら、急に水の流れを感じて。あまりに急な流れに、そのまま足をとられて飲み込まれて…気づいたら、この外の池にいたみたいです。そこで、タンダに助けてもらいました。」
うーむ…と、さっきよりも深く、トロガイは唸った。囲炉裏をはさんだ正面に座る不思議な老人を、はじっと見つめた。パチパチと薪がはぜる音と、火によって揺れるトロガイの影が、自分が別の世界にいることを実感させた。と、おもむろにトロガイが口をひらいた。
「あんた、そのとき買った『水』は、普通の水かい?」
トロガイの言う意味がよくわからなくて、は首をかしげた。
「…私のいた場所では一般的なもの、だと思います。あ、まだ持ってるので、持ってきますね」
そう言っては立ち上がり、部屋の隅に置きっぱなしにしてある鞄の元へ行く。さっとチャックを開けて取り出すのは、今となっては懐かしい500mlのペットボトル。買ったときに一口しか口をつけていないので、ほとんど全て残っている。あけてから結構な日付が経っているので、飲まないほうが懸命なのは確かであろう。それを、トロガイに差し出す。受け取って、トロガイは目を見開いた。
「こりゃたまげた…!!訳のわからない、透明な容器…。確かに、あんたは別の世界の人間のようじゃな…」
そう言って、感嘆の溜息を吐く。それから、受け取ったペットボトルを色んな角度で見たり、撫で回した。
「どうやってあけるんじゃ?」
「あっはい、えっと、青いキャップを…」
「キャップ?」
「あ!丸い形したやつです。それを右に回せば…やります、やります!」
腰を浮かせて、さっとボトルを受け取る。数回ひねればキャップが取れた。たったそれだけのことに、トロガイとタンダは再び感動している。そのまま、こぼれないようにトロガイに渡す。受け取ったトロガイは近くにあった椀に水を注ぐ。そうして、水の減り具合が目に見えて分かることにいたく感銘を受けたらしい。
「こりゃたまげた。たいした容器じゃ、わしにくれんか」
「あ、はい。中身ごとどうぞ」
「さて、問題はこの水じゃ」
「水、ですか?」
椀の中の水面を器用に回しながら、トロガイは頷く。
「お前さんの世界では、本当にこの水が普通なのかい?」
質問の意図が分からず、は首を傾げる。
「えっと…空けてから時間が経ってるので本来はもっと新鮮ですが、普通だと思います。」
「…ふむ。しかしこの水は、少なくともこの世界では普通ではない」
えっ、と発せられた言葉と同時に、は目を大きく見開いた。トロガイは続ける。
「こりゃあ、ナユグの水じゃ。ナユグの匂いがする。」
その言葉に、驚いたタンダが腰を浮かす。
「師匠、それじゃあ…。」
「ああ。、お前さんはナユグの水を飲んでしまった。どんな理由かは知らん。が、飲んでしまったことで身体がナユグと繋がったのじゃ」
「ナユグ…?」
「この世界と、表裏一体で存在する、もう一つの世界じゃ。この水を飲んだことで、お前さんの身体にナユグの要素が入り込み、同調した…と、考えるのが適当じゃな」
「すると、師匠」
何ごとか考え込んでいたタンダが口を挟む。
「が自分のいた世界に戻るには…「この馬鹿弟子!またナユグの水を飲んでどうにかなるなら答えは早いわい。…飲んで帰れなかった場合のことを、考慮せずにはいられまい。」
「じゃあ…」
タンダが力なくうなだれる。そのやりとりに、は囲炉裏の炎を見つめたまま、口を開いた。
「…私は、帰れないと…そう思ったほうが、いいのですね?」
トロガイが目を伏せる。
「…ああ。、といったか。辛いかもしれないが、そう思うほうが懸命じゃ。」
そしてトロガイは一息ついた。
「…しかし、この水は興味深い。調べて、何か分かったら教えるとしよう。お前さんには、それを知る権利がある」
「お、お願いします。」
返事をしつつも、は頭では別のことを考えていた。(もう、帰れない)その一言が、の中で木霊していた。この世界に来て半年近く経つというのに、今になって急に妙な気持ちになった。どこかに、まだ繋がっている気持ちがあったからだろうか。とてつもない喪失感に駆られていた。
「…!」
タンダの声で、現実に戻る。タンダはの肩に手を置き、もう一方の手で背中を撫でてくれた。
「…落ち着け、泣いていいから、少し手の力を弱めろ。爪が、手のひらに…」
言われて、は漸く自分の手のひらの鈍い痛みに気がついた。いつのまにかあふれ出していた涙で多少ぼやけているものの、ゆっくりと開いた掌には、爪のあとがしっかりついていた。泣いているという自覚と共に、涙が溢れ、嗚咽をもらす。薪が爆ぜる音とからもれる嗚咽だけが、タンダの耳についた。
(2009/01/27)