言霊人

09 正義の英雄でなくとも

 客もまばらになり、しばらくすれば店じまいの刻限。は、客がいない机を明日に備えて丁寧に拭いていた。そうして個室の掃除をしているとき、座に扇が一つ置き忘れられているのを見つけた。(確か、ここはギタラク様がご予約で使われていた座…)まだ、ギタラク様御一行が去ってから、さほど時間は経っていないはずだ。そう思い、はそっと扇を手に取り、店主の元へ向かった。

「旦那様、どうやらギタラク様がこの扇をお忘れに…」

 そう言って差し出された扇に、店主は渋い顔をした。というのも、この扇、随分と凝った拵えで、なにぶん物が良さそうなのである。店主は腕を組み、困ったようにどうしたものかとつぶやいた。その様子を見ていたは、今夜の外の様子を想像した。(今日は月夜のはずだから、真っ暗ではないし、今はまだ、人通りもある時間帯…)そこまで考えて、

「旦那様。今から追えば、まだ間に合うかもしれません。ギタラク様のお宅も存じておりますし、私、届けに行きます」

 のその発言に、再び店主は渋い顔をした。

「年頃の女子を一人、こんな暗い中歩かせるわけには、なあ…」

 きっとタンダに怒られてしまうよ、と店主は困り顔だ。

「誰かつけてやりたいが、…今は誰も手が空いていないようだしなあ…」

 そんな店主に、はにっこりと返した。

「もともとギタラク様のお邸もそう遠くはありませんし、心配なさらなくても大丈夫ですよ」

 そう言われて、店主はその提案に心が傾いたようだ。

「そうか…なら、申し訳ないが、ひとつ頼むよ」

 はい、と返事をしたは、手馴れた様子でさっと前掛けをはずし、奥から持ってきた風呂敷で扇を丁寧に包む。まだ店主は済まなそうにしていたが、大事なお客であるギタラクの忘れ物を早く届けてしまいたい気持ちが大きいのだろう。十分気をつけるようにと言い含め、に灯りを持たせた。



 灯りでしっかりと足元を照らしながら、は月でいつもより幾分明るい夜道を歩いた。急ぎ大通りを渡り、いくつかの小道を過ぎた頃、はなんとかギタラク一行に追いつくことができた。ギタラク自身は車に乗っているが、数名の従者たちは歩いている。がその中の一人に声を掛け理由を話すと、車が止まり、一番偉いらしい従者がから扇を受け取って、かわりに主人からの礼を伝えた。そして本来なら店までを送り届けるのが礼儀なのだが、護衛の人数の都合上、それが出来ないという謝罪を述べられた。はその心遣いに感謝を述べて、その場は終わった。そして、再び灯り一つでは来た道を引き返しはじめた。



 問題は、その帰路でおきた。行きほど早くは無いが、はいつもよりは足早に進んでいた。そうして路地に差し掛かったとき、の死角から千鳥足で出てきた人影にぶつかり、転ばせてしまった。よく見ると、どうやら相手は武人で、灯りも持たず一人で酔っ払っているようだ。は手にしていた灯りを慌てて足元に置くと、武人に駆け寄った。声を掛ければ、やはり完璧に出来上がっており、大声で罵倒を浴びせられた。転ばせてしまったことを申し訳なく思って、起き上がるのに手を差し出したものの払いのけられてしまい、とにかくぶつかってしまったことに謝罪した。しかし、その武人は半身を起こした状態で無礼だなんだと罵るのをやめない。たまにその道を通る人々は、に同情の視線を送っては足早に去っていった。もこれ以上ここで足止めされて遅くなってしまっては困ると思い、帰らねばならないと話した上で、立ち上がった。そしてもう一度謝罪しその場を後にしようとが踵を返したときだった。唐突にその武人が、の足を引っ掛けた。それはあまりにも突然のことで、は盛大に前のめりに転んでしまった。すりむいてしまった手に付いた土をはたき落としながら、キッと後ろを振り向いたに、武人は下品な笑いをあげた。そんな武人に、は怒りと呆れのあまり声も出なかった。真面目に謝ったのが馬鹿らしくなって、再び立ち上がろうとしたとき、の左足首に激痛が走った。予想外の痛さに足首を押さえて座りこんでしまったに、背後にいた武人が卑しい声で言った。

「おや、お嬢さん…痛そうだねえ。どれ、この私が見てあげようか……」

 しゃがみ込んだまま反射的に身を翻したは、真正面から武人と向き合った。そうしてそのまま後ろに下がろうとするも、左足が痛くて思うように下がれない。そうしている間にも、武人は酔いの回った不安定なバランスで立ち上がり、に近寄ってくる。その時、だった。

「何をしている」

 気付くと、灯りを持った一人の男が、たちから少し離れたところに立ち止まっていた。男は、様子を窺うようにそのまま二人の方へ向かってくる。助かった、とはその男に心の底から感謝の気持ちでいっぱいになった。一方の武人は、苛立たしげに男の方を振り向いた。

「なんだ…?見ての通り、いいところなんだ、邪魔しねぇでくれよ」
「…女性の方は、嫌がっているっように見えるが」

 そう言って食い下がる男の顔は、武人の影になってしまってからは見えない。が、その声に聞き覚えがあった。(「タイガ、様」…?)そう、の聞き間違えでなければ、この声の主は、ここ一ヶ月で顔見知りになった、ジン――狩人の「ニ」、ことアムスラン・タイガである。(…そう、いえば、アムスラン家はこの近くだったっけ…)まさかの天からの助けに、は安堵のため息をついた。




 がそんなことを考えているうちに口論は終わり、武人は何やらぶつぶつと文句を言いながらも、ふらふらと去っていった。

「大丈夫か」

 その問いに、がはっとして視線をあげれば、思いのほか近い位置で相手の視線とぶつかった。タイガはの身を案じてか、ひざを折っての真正面で具合を窺っていたのだ。予想外の距離に、は内心たじろいだ。

「え…あっ、ありがとうございました。本当に、本当に、助かりました…」

 少し涙を浮かべながらも、が心底安堵した様な表情を浮かべているのを見て、タイガは「そうか」と頷いた。

「立てるか」

 そう言って差し出された手につかまり立ち上がろうとするも、再び左足首に痛みが走り、は座り込んでしまった。痛みに顔を歪めるの足首に、失礼、とタイガの手が伸びてきた。そっと掴まれただけだが、の表情は苦痛に歪んだ。

「!…すまない…」

 の表情に気づいて、申し訳無さそうに手をひっこめるも、タイガの視線はの左足に注がれたままである。

「挫いたのか」
「……その様です」
「さっきの男か」
「……」

 タイガは沈黙を肯定ととったのか、しばらく思案した後、再び視線を上げてと目を合わせた。

「やむを得ないな…その足では動かすのは辛いだろう。幸い、私の家が近い。今日は泊まっていけ。明日、店まで送ろう」


(2009/06/26)