言霊人

11 自分は知っていたのだ

 未来なんて、知らないほうがいい。

 知ってしまったらきっと、そんな日々には耐えられないだろう。知っていた未来で安穏と生きるより、知らない未来で後悔や反省を重ね生きるほうが、はるかに良いと思う。いつだって引き返せないからこそその時々に悩み、苦しみ、誰もが最後には何かを選び取ってゆく。その途方もない積み重ねの上で、時代が変わり、世間が変わり、社会が変わり、
あらゆる出来事は歴史となって過去に流れ、後の世の人々に評価される時がくる。それを―――その評価を、なぜ恐れることがあろうか。今この時を生きる己の選択を、未来の歴史家にどんなに酷評されようが、その歴史家はまだこの世に生を受けていないのだ。何も恐れることはない。何かを恐れるとしたら、それは目の前の「今」――現実だけで充分だろう。



 あの出来事から1週間、はほぼ軟禁されたに等しい状態だった。無茶をしたことについてたっぷり店主に叱られ、足を治すことに専念するよう言い含められた。そのため店の表に出られないは普段は女将が行っている会計の帳簿付けをしていた。(女将さん、結構溜めてますね…)足を伸ばしながら、はのびのびと穏やかな日々を過ごした。いくらか足の具合も良くなり、そこそこ歩けるようになったは、あの日の礼を伝えるために、再びアムスラン家を訪ねることにした。ゆっくりと足に負担を掛けないように歩きながら、は久々の街に少し違和感を感じた。(街が、いつもより少し賑やか?)が、祭りか何かが近かっただろうか、なんて事を考えていると、道行く人々の会話が耳に飛び込んできた。

「――…ニノ宮が?―」
「ああ、燃えちまったらしい―…」
「―…第二皇子は―――」

 覚えのある言葉に、ついは立ち止まり、振り返った。周囲の人々から怪訝そうな視線を送られていることに、は気づかない。それほど、は内心慌てていた。(チャグム皇子とバルサが逃亡した――?)





 数日ぶりに訪れたアムスラン家は、静かだった。街の賑わいとは正反対の静けさに、は心が逃げ出したがっていることに気がついた。(引き返すなら、今しかない…でも、…―――)門前で声を掛ければ、以前世話になった女中が出迎えてくれた。アムスランの元へ導かれるなか、も、導く女中も、口数は少なかった。女中のほうは、まるで意識して静けさを保っているようだった。客間には、アムスランが険しい表情で座っていた。が決まりきった挨拶を丁寧に述べれば、やはり決まりきった返答があった。それから、店主にもらった酒の礼を言われた。

「あの薬酒は、旦那様の趣味で集められているものなんです」
「味は独特だったが、身体の調子は良い。さすがは薬膳処のものだな」
「お気に召していただけたなら、宜しゅうございました。それから――」

 は持ってきた最高級品の『ヨモギ茶葉』を差し出した。

「味にクセはありますが、こちらも身体に良いので、是非…私自身からの、ささやかなお礼でございます」

 身体に良いことばかりの会話に、視線があった二人はお互い笑みを浮かべた。しかし、その暖かい雰囲気も束の間、アムスランはふと渋い顔をした。

「…いかがされましたか?」

 が問えば、アムスランは少しの間をおいたあと、重たそうに口を開いた。

「タイガが…怪我をしてな」
「…タイガ様がお怪我、ですか」

 アムスランの言葉に、は全身が急に重たくなったような気がした。頭の中で、警鐘が鳴っている。(これ以上、聞きたくない……だめ…ダメ、駄目…!この先を聞いてしまったら、私は、もう、…)そんなの内情など知るよしもないアムスランは、言葉を続けた。

「ああ…さん。友が少ない愚息だが…少し、見舞ってやってもらえないだろうか」

 どこか遠くでアムスランの言葉を聞きながら、の理性と感情がせめぎ合う。(ここで頷いてしまえば、もう、私は引き返せなくなる…―――でも、…それでも、私は――)気づけば、は首肯していた。

「…私などでよろしければ、喜んで。タイガ様にもお礼を伝えたいと思っておりました」

 葛藤していたはずの心が、一瞬ですっと軽くなり、『開き直った』のが分った。そして、この先で自分を待っているであろう『何か』に対して、構えはじめる。

「ありがたい。あいつも喜ぶだろう」

 アムスランは幾度か満足そうに頷くと、女中を呼んでタイガの様子を尋ねた。



 室へ行くと、女中から報せを聞いたのか、タイガは痛みに顔をしかめながら、布団から上半身を起こしたところだった。は、タイガの姿を見た瞬間、身体に力が入らなくなってしまった。タイガの右肩には、包帯どころか服にまで血が滲んでいた。左腕には添え木が付けられており、それは彼の腕の骨が折れていることを意味している。室に一歩入った位置で、は座り込んでしまった。身体は震え、絞めつけられるような胸の痛みに涙が溢れ出す。あまりにも突拍子の無いの反応に、アムスラン父子は戸惑いつつ、どうかしたのかと優しく声を掛けた。しかし、胸の痛みと、知ってしまった現実にいっぱいいっぱいになっているに、その声は届かない。タイガを見舞いに来たはずが、そのタイガに自分が気遣われていることにも気づけない。両手で顔を覆い、はただひたすら、ごめんなさい、ごめんなさい、と二人に繰り返し謝った。困惑した表情のアムスランが、の近くに膝を折り、そっと顔を覆っている手をはずさせる。

「何故、謝られるのですかな」

 真っ直ぐなアムスランの眸に、はより一層涙が零れた。(私は、彼らに何を隠そうとしていたの…?隠して、安穏と過ごしていた…。私は、知っていたのに…知っていて、タイガ様にこんなにも酷い傷を負わせたのは、私…)―――は、涙を流しながらも、覚悟を決めた。(自分が話せるだけの『全て』を、彼らに話そう)何度も何度も深呼吸を繰り返し、自分を必死に落ち着けようとしているを、アムスラン父子は何も言わずただ静かに待っていた。


「…全て、知っていたんです。なのに、私は…タイガ様の怪我を、防ごうとはしなかった…」

 涙で目元を赤らめ、苦しそうなのその言葉に、空気が変わった。タイガが口を開こうとしたが、それをアムスランは視線で制し、自ら尋ねた。

「何を、知っておられるのでしょうかな?我々に、詳しく教えて頂きたい」

(2009/07/27)