言霊人
17 日陰の心地
外に出て自分を見た瞬間、ピタリと固まってしまった『未来を知る』という女性は、先程とはうって変わって、あまりにも無防備に思われた。ただただ黒い瞳に、吸い込まれそうな錯覚を感じ、思わずその瞳から視線を逸らすために踵をかえす。
「ゆくぞ」
シュガの姿にみとれ、いつの間にか瞬きすら忘れていたは、少し乾いてしまった目を幾度となく瞬かせた。自分が数歩進んでも後ろからがついてくる気配が無いので、仕方なくシュガは再び立ち止まり、彼女のほうを振り向いた。
「どうした」
するとは、諦めにも似た、まるで全てを悟りきったような表情で、笑った。
「…シュガ様。信じる信じないは、貴方次第です」
唐突な彼女の言葉に、シュガが怪訝そうに整った眉をひそめた。それに構わず、は言葉を続ける。
「どうか、ご自分のお考えを信じて下さい。貴方が、正しいと思ったようになさって下さい。たとえ、それで周りからどう見られ、なんと言われようとも」
「…それは、どういう意味だ」
星読の妨げにならないよう、星ノ宮の周りには一切の植物が無い。時折、シュガの長い髪を揺らす風がかすかな音をたてるだけの、静寂の空間。その風すら無くなった今、下界から切り離されたそこは、完全なる沈黙が広がっている。そこに再び音の波紋を投じたのは、やはりだった。先程の、どこか掴みどころの無いものとも、聖導師の前でみせた凛とした張りのある声とも違う。シュガには、その声が生ける物の持つぬくもりを伝えるような、心地の良いものに思われた。
「申し上げた通りです。シュガ様がご自分を信じることで、確かに救われる者がいるのです。私のこの言葉を、心に少しでも留めて頂ければ幸いです」
はさっぱりしたような明るい笑みを浮かべた。その、少女のような、どこか幼ささえ感じさせる笑みが、聖導師と対等に張り合っていた女性のものだとは、シュガには全くもって信じられなかった。
「お時間をとってしまい申し訳ありませんでした。参りましょうか」
しかし、少し戸惑ったからと言ってそこで対応し損ねるほど、シュガは凡人ではない。の促しに、シュガはつとめて冷静な表情で頷き、先程までと同じの三歩先を歩き出した。
宮の門を出たところで、アムスランの迎えを二人で待った。について、アムスランと聖導師が話し終えるのを待っているのだ。シュガは、門の影で共に佇んでいる女性に視線を向けた。ヨゴ人とも、ヤクーとも違う顔立ちではあるが、断言できるほどの違いは無い。
「、といったな」
「はい」
突然の質問であったためか、僅かに間はあったものの、落ち着いた返事がかえってくる。礼を欠かないようにと、がシュガを見遣れば、必然的に目が合った。
「そなた、生まれはどこだ」
シュガはこの時、初めての動揺した姿を見た。十分予想し得た範囲の反応だったはずが、先程までの毅然とした対応からは予想外の反応だったので、シュガも面には出さないものの少なからず動揺した。
「…とても、遠いところです」
「…それも、申せば変わってしまうものの一つなのか?」
は一度ゆっくりとした動作で、その瞳に映す世界を確かめるように、瞬いた。
「…そう、ですね。あまりにも衝撃が大きい…かもしれません」
「曖昧だな。何故そのように自信が無い」
「…考えてもみなかったから、でしょうか。私の生まれた場所が持つ、意味を」
そう言って戸惑いを見せるに、シュガは無意識のうちに安心した。
「そうか」
一旦言葉を切ったシュガは、わずかに逡巡する。
「…ならば、それでも良い」
ぽつりと呟かれたシュガのその言葉に、は驚いた。
「…よろしいのですか?」
「今は、良い。私はそなたに、何やら不可思議なものを感じている。しかし今はまだ、それに触れてよいのか、図りかねている」
そのシュガの言葉に、は心の中で彼を賞賛した。この、未知なるものに対する、的確かつ柔軟な対応。(やっぱり、只者じゃない…)呆然とするに、シュガは初めて名前で呼びかけた。『』という、この国では聞きなれないその響きに、何か意味があるのではないか、などと考えながら。
「…はい」
いまだに半分ほど呆然としていたは、なんとか返事をした。シュガには、のその短い返事すら、失ってはならない大切なもののように思えた。シュガは今一度、心で確かめるように唱えてから、再び呼びなおした。
「。私は、そなたの話が聞きたい。そなたと話がしたい、と言うべきか。どんなことでも良い。そなたの国、そなたが〈視る〉もの…。直接聞けるのが一番だが、文でもよい。狩人を介して、私の質問に返事をくれないだろうか。無論、短い返事でも構わぬ」
思いがけず、静かな気迫とともに投げ掛けられた彼の切実な懇願に、は完全にのまれていた。けれど、それはにとって嫌な感覚ではなかった。むしろ、当初が願った展開である。
「お役に立てることがあるならば、喜んで」
快く頷き、明るさが加わったの笑みに、シュガはチャグムの喪失で失っていた心の一部が、かすかに戻ってきた気がした。そんなシュガの心の内を知ってか知らずか、空を見上げたは声をかけた。
「よく、晴れていますね。洗濯物が良く乾きそう」
「…だが、晴れてばかりでは洗う水が枯れてしまうな。明日の天気は分からないのか」
「分かりません。そんな、細かいことまでは」
言いながら、は困ったような笑みを零した。
「次にいつ雨が降るか、なども?」
「それも、分かりません。シュガ様の方がお詳しいのでは」
「確かに天道で学んだが…。漁師である父から教わったものの方が、遥かに当たるな」
いたって真面目に言ったシュガだが、なるほど、と妙に納得するに、僅かに口元を綻ばせた。夏の時期、ただでさえ小さい影は、アムスランを待っている内に、より小さくなっていた。
(2010/02/14)