言霊人

21 足枷となる迷いなど要らぬ

俯いたまま黙り込んでしまった。その肩は小刻みにゆれ、時折鼻をすする音がする。タイガは、普段以上に小さく見えるを目の前にして、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。しかしその衝動と同時に胸がつまり、わずかに伸びかけた腕は彼女に触れることなく降ろされる。彼女に泣くほど辛い思いをさせたのは誰か。冷静な部分が、己に問いかける。

(間違いなく俺だ)

そう心の中でこぼし、ぐっと噛み締める。今のタイガには、彼女の膝の上できつく握り締められているその手に、触れることさえ叶わなかった。

「……本当にすまなかった。早く休んでくれ」

そっと短い言葉だけを置いて、タイガは静かに立ち去った。もはや堪える必要の無くなった涙は瞳から溢れ、静かに頬を伝う。幾重にも雫の線が引かれ、とうぶん乾きそうにない。本来ならば今、ちゃんと話をすべきだった。それは分かっている。けれど、罪悪感と後悔に捕らわれて「待って」という一言すら声に出せなかった。せめて着物のすそでも掴めていればよかったのにと思っても、後の祭り。

(情けない。無力な自分が憎たらしい……)

静かな夜、木々のささやきの中で自分の惨めな嗚咽が耳につく。やたらと重く感じる身体を持ち上げ、すぐ後ろの自室に下がる。緩慢な動作で寝床を用意し、倒れこんだ。枕を濡らすとはこの事か。頭の片隅でそんなことを考えている自分を蔑みながら、泣き疲れるまで静かに泣き続けた。



泣き腫らした瞼は酷く重く、少し頭痛もした。けれどはいつも通りに起床し、身支度を整える。手伝うために向かった台所で、の顔を見たユエに何事かと心配されたが、彼女は深く聞くことはせず、冷やしたほうが良いと濡らした布巾をに手渡してくれた。

「そんな顔で朝食に行かれたら、お館様もタイガ様も心配なさいますよ」

何も知らない優しさゆえの言葉が、の心をより重くした。朝餉の席にが現れたとき、アムスランは一瞬気遣うように彼女を見たが、塞ぎこんでいる様子のタイガに気付き、結局は普段と同じように振舞った。しばらくして、タイガが仕事のために一人早くその席を下がり、その場はアムスランとの二人になった。

「お館様、お願いがございます」

唐突にそう言った彼女に、初老の紳士は優しい眼差しを向けた。

「お聞きしましょう。ですがその前に一つだけ。さん、あなたの目元が赤いことと……その“願い”は、何か関係しておりますかな?」

予想外に問い返され、は一瞬ひるんだものの、苦笑して素直に頷く。

「……あります。直接か間接的にかは判断に悩むところですが」
「そうですか。して、その“願い”とは」

は姿勢を正し、相手をしっかり見据えた。

「今日一日、供をつけずに出歩くことを、どうかお許し下さい。……自分の立場では無理を申し上げていると、重々承知しております。ですが、どうか」
「今日だけは見逃して欲しい、と」
「はい」

アムスランは腕を組み、しばし思案した。チャグム皇子の死の真相を知っているだけでなく、狩人について、未来について、他人に話されては困る多くのことを彼女は知りすぎている。そんな人間に一人勝手をさせるわけにはいかない。今までも、何度か仲良くなったらしい女中の者と街に行くことは最大限の譲歩として許してきた。しかし今回の彼女の願いは『一人』になること。考え、彼は低く唸った。

かつて帝に使えていた者の判断からすれば、帝や宮の立場を危うくしかねない存在を自由にすることは間違いなく容認できない。だがともに過ごしてきた中で、の行動に怪しげなところは一切無く、むしろ万事自分の立場を弁えている彼女には好感さえ持っている。アムスランはを見据えた。初めて会ったときから、常に不慣れながら一生懸命で、真っ直ぐな彼女を信じてやりたい。

(年を……とったものだな、自分も。情が移りやすくなってしまったようだ)

まだ半分ほど茶が残っている湯飲みに手をあて、指先を温める。

「……わかりました、良いでしょう。今日一日限りですが、認めましょう」

その言葉に驚きながらも感謝を述べようとするを、老狩人は視線で押しとどめ、ただし、と言葉を続ける。

「日暮れ前には戻ること。光扇京から出ないこと。この2つ、お約束いただければ、ですが」

その条件に、はこくこくと頷く。

「お約束します!…ありがとうございます、アムスラン様」
「いえ……しかし、愚息には怒られてしまいますかな」

そう苦笑するアムスランに、はいくらか後ろに下がって三つ指を着いた。その最大限の礼に、アムスランが鷹揚に頷いたのを確認してから、は急ぎ外出の支度を整えるとすぐさま家を飛び出した。




は真っ先に星ノ宮へと向かうことにした。しかし高級住宅街を歩くことはせず、ひとまず一ノ大路へと出る。同じ一ノ大路であっても扇ノ下と中では全く空気も人も装いも違う。幸いが常に身を置いてきたのは扇ノ中。最初の頃こそ馴染めず浮いていたが、じき溶け込めるようになった。そのおかげか、供をつけていなくとも卑しいものに見られることはなく、星ノ宮の方へ向かっても衛士に止められることは無かった。だが、門の前まで来て、シュガが呼べば出てこられるような身分ではないことを思い出し、自分の無計画さに呆れた。

(シュガ様が星ノ宮にいるとも限らないし……)

がっくりと肩を落とし、あからさま過ぎるほどに落胆の表情を浮かべたに、ふいに声が掛けられた。

「あなた様は以前、ここでシュガ様とお話なさっていた方ではありませんか?」

どうやら話をしてみれば、この門番はシュガと立ち話をしていた日にも立っていたらしく、珍しい客人であったため記憶していたらしい。
面会したい旨を伝えると、「面会許可がいただけるか、確認して参ります」と快く応じてくれた。

(運が再び巡ってきた予感)



(2011/06/07)