通り雨
往 7
信玄と話をして以降、の待遇は単なる居候から客に格上げされ幾分か自由は拡大された。また一度、に慣れてきた幸村は同じ馬に乗せて、城下まで連れて行った。一緒に街を見て歩き、甘味を食べ楽しい時を過ごした。度々赤くなり、今にも叫びだしそうになる幸村扱いに困るのもよい時間潰しになったと佐助に感想を漏らせば、翌日の幸村は何かもやもやを抱えた表情をしておりそれを佐助にからかわれていた。
は信玄に返して欲しいと頼まれた懐中時計をゆっくり撫でた。年季の入ったそれは鈍く月の光を反射させてどこか幻想的だった。持ち主に返すべきであり、この時代にはまだあってはならない物だから、といってに預けたのだ。手放すとき、信玄は寂しそうに微笑んでいた。
それを思い出し、もう一度懐中時計を撫でた。刻み込まれた無数の傷が、信玄とともに歩んできたであろう長い年月を感じさせ、ズキリと心が痛んだ。
(本当に返しちゃっていいのかな)
信玄の主張は尤もで、異論は無いが、気持ちとしてはなんとも言い難い。
「殿?」
窓から見下ろしたそこには槍を持った幸村が見上げていた。
「あまり夜風に当たっていると風邪を召されまするぞ」
そこで幸村はあっと声を出して、懐を探り出した。
急に慌てだし、叫んだ。
「い、殿!しばらく時間をいただけませぬか!某が今からそちらへ参る……っく、申し訳ないが降りてきては下さらぬか」
「別にいいですよー。ちょっと待ってて下さい」
降りてきたを待っていたのは、顔を赤くしながらおろおろしていた幸村であった。伏目がちに少し躊躇ってから、ぐいと視線を上げた。
「そそその、夜分遅くに相澄みませぬ。まして御足労いただき感謝いたしまする」
「……えーとその、そんな畏まらないで下さい。どうしたんですか?」
「う、うむ。お館様や佐助がその、……いやなんでもありませぬ!」
「え、なんでもないの」
「違うでござる!その、女子にこのような時間に出歩かせてしまい申し訳ない。用事というのはこれでござる」
幸村が包み紙に包まれた小さなものを懐から取り出した。
「これを殿に受け取っていただきたく」
「くれるの?」
耳まで真っ赤に染めた幸村が頷き、が両手で受け取り包みをそっと開いた。
「あ……」
包まれていたのは、手のひらにちょうどおさまるつげ櫛であった。飾り櫛としても使えそうな意匠が凝らされている。わおっと、色気の無い歓声を小さくあげる。
「いいんですか、その本当にこんな素敵なもの貰っちゃって」
「某は、女子に何をあげれば良いのか分からなくて……、その喜んでいただけたでござるか」
「すっごく……」
「それは、良かったでござる」
あからさまにほっとした表情を浮かべる幸村には思わず笑った。先ほどの言動から察するに信玄や佐助になにやら言われたのであろう。それを受けて、ではあってもこの様に気遣われるのは不快ではない。
「殿が、いずれ帰ってしまう話もお館様から聞いた……、某は、殿に忘れないでいただきたいのでござる。甲斐の国に来たこと、見たもの、感じたもの、そして某たちを」
「んな、忘れるはず無いですよ。てか、忘れられませんよきっと」
「ありがたきお言葉。……某は、以前殿が仰られた言葉を生涯忘れず己に言い聞かせていく所存でござる」
幸村の熱い宣言に、はポカーンとした思いで(実際顔にも表れていた、というのはこっそり見ていた佐助談)聞いた。こそばゆいものを感じつつも、ありがとうと笑顔で答えた。
2013/01/05